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黒猫とライト

    二

 稽古は順調に進んでいた。稽古の進み具合を見るのは亜美の役目ではないが、この調子で行くと一か月後の公演には余裕で間に合いそうだと安堵の息をはいた。
 あの日以来、亜美は小暮に話しかけるのは止めていた。もちろん、最低限のあいさつなどはするし無視をしているという訳では無い。ただ、演技について話に行くのを止めただけだ。話に行くたびに眉を顰められるのはこちらとしても本意では無いし、そこまで心が強い自信も亜美には無かった。亜美が言わなくても大抵のことは演出が支持する。そうでないもの――例えば、一緒に演じてるからこそ分かる微妙な空気や間の取り方などについて、相談したい思いはかなりあったが、眉を顰められることと天秤にかけて止めた。
 昼ご飯を買って稽古場へ戻る途中、黒い猫を見つけた。まだ子供なのだろうか、体躯は小さめだ。
「ねこ、ねこ」
 ゆっくりとしゃがみこんで手を振ると、興味を持ったのか、金色の瞳を丸く開けて黒猫は亜美の方をじっと見た。
「エビフライあるよ」
 言葉が分かったのか、亜美の持つ袋を見つめている。
近付いても大丈夫かな?
 亜美がゆっくりと立ち上がり一歩を踏み出すと、黒猫は踵を返して離れていってしまった。
「やっぱり駄目かー」
 誰に言うでも無く苦笑しつつ、何気無しに後を追う。丁度稽古場へ帰る通り道だ。建物の角を曲がると、そこには亜美は今一番会うのに気まずい人物がいた。
 ベンチに座って弁当を食べている小暮の足元で、先ほどの黒猫がおこぼれを預かっていた。一生懸命口に頬張るその姿が可愛い。黒猫を見る小暮の眼は優しい。
「……小暮」
 呟いたその声が聞こえたのか、猫を見つめていた小暮が亜美の方を向いた。
 数拍の沈黙の後、先に口を開いたのは小暮だった。
「横、来る?」
 小暮の横に座ることと、猫を見守ること。僅差で、猫の可愛さが勝った。ついでに、自分が買った弁当も開ける。小暮の横でご飯を食べている状況を、どこかおかしく感じながら、亜美は口を開いた。
「この子、小暮の猫?」
 黒猫は先ほどまでの警戒を解きはらって、安心したようにご飯に貪りついている。
「いや、餌上げてたら懐いちゃって」
 返事が返ってきた。そう言えば、演技に関係ないことなら小暮は結構普通に喋る人だった。そんなことを今更思い出して、亜美は会話を続けた。
「いつからあげてるの?」
「今回の稽古始まった時くらいから」
「そんな前から?」
 若きウェルテルの稽古が始まったのは、確か一カ月ほど前からだ。なるほど、黒猫も警戒を解くようになる訳だ。
「名前付けないの?」
「名前?」
「そう、名前。ほとんど飼い主みたいなもんだし」
 名前が無いと可哀想じゃない?
「名前、か……」
 亜美に言われた初めて気が付いたというように、小暮は顎に手を当てた。その間に亜美はマカロニサラダを食べる。おいしい。
「……ヨハン」
「ヨハン?」
 思わぬカタカナの名前に、亜美は思わず聞き返した。てっきり「たま」とか「みーちゃん」とか、ありきたりな名前を付けると思っていたから。
「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテのヨハン」
 亜美が息を飲んだ。そのまま、小暮を数秒見つめる。
「そっか……良い名前だね、『ヨハン』」
 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。今回の舞台の原作である『若きウェルテルの悩み』の作者だ。まさか小暮がゲーテのフルネームを暗唱できるとは思ってなかった。日本人にとっては長すぎるその名前は、なかなか覚えられない。団員の中にも、覚えている人は何人いるかどうかだ。「ゲーテ」と言えばそれだけで通じるから、みんなゲーテとしか言わないし、だから覚えられない。
「ヨハン、これあげる。名前が決まった記念に」
 衣を取ったエビフライを傍に落とすと、ヨハンは目にもとまらぬ速さでエビフライに飛びついた。思わず笑ってしまう。
「小暮にはこれ」
「……トマト?」
「うん、トマト」
 弁当に添えられていたプチトマトを、小暮の持っていた肉弁当の上に乗せる。そのアンバランスな組み合わせがおかしくて、亜美は再び笑った。
「川崎は俺のこと嫌いなんだと思ってた」
 唐突に小暮が言った。
「なんで?」
「俺のこと避けてるみたいだったし」
 亜美は食べ終わった弁当をコンビニのビニール袋にしまうと、口を縛った。もちろん、折った割り箸を一緒にいれることも忘れない。
「別に嫌いじゃないよ」
 苦手ではあったけど。何考えてるか分かんないし。
 後半は口の中だけで言って、亜美は視線をヨハンに移した。
「そっか」
 納得したような、してないような相槌を小暮が打つ。
「俺さ、ずっと考えてたんだ。川崎が言ってくれた解釈について」
 思わず小暮を見た。そのことに驚いた小暮に「何?」と聞かれたが、亜美は「ううん」とだけ言って視線をヨハンに戻した。
「続けて」
「前に川崎言ってくれただろ? 一幕三場のウェルテルとシャルロッテの関係についてさ」
 以前の無言が嘘だったかのように、小暮はそのまま話を続けた。以前亜美が言ったことに対しての返答、意見、質問。さらに言うと最近稽古に入ったばかりの一幕七場についての解釈も。
 ――彼も彼なりに考えてると思うよ。ただ無口なだけで。
 数週間前に姉に言われた言葉を思い出す。本当だねお姉ちゃん。小暮も小暮なりに考えてたみたい。
 解釈について二人の討論が一段落すると、立ちあがりながら亜美は言った。
「ねえ小暮君。私今日から貴方のこと涼太って呼ぶから」
「へ?」
「呼ぶから。いいでしょ?」
 ついでに小暮の分のゴミも手に取る。
「あ、ああ。でもなんで?」
「なんでも。気分よ気分」
 じゃあ、また午後の稽古で。おう、あ。何? ゴミ、ありがとな。どういたしまして。
 そうして小暮との会話は終了した。
 ゴミを捨てて稽古場に帰ると、音響の打ち合わせが終わったらしいあかねが、お茶を飲んで一息ついているところだった。
「あれ? 亜美、機嫌良い?」
「うん、ちょっとね、良いことがあって」
 そう言いながら自分の鞄から台本とペンを取り出す。開くページは先ほど小暮と話していた一幕三場。忘れないうちに、と亜美は先ほど小暮と話した解釈について台本に書き込んでいった。

 
「ロッテ、いる?」
「――ウェルテル!」
 ウェルテルの声に、シャルロッテは頬を上気させて立ちあがった。
「ごめんね、待たせた?」
「いいえ、全然」
 実際は結構待っていたのにもかかわらず、シャルロッテは答える。と、いきなり破顔すると、ウェルテルの髪に手を伸ばした。
「葉っぱ、付いてます」
 ウェルテルが見ると、シャルロッテの手には広葉樹の葉が摘ままれていた。
「ありがとう」
 照れくさそうにウェルテルが笑った。シャルロッテが葉を揺らして遊んでいると、不意にウェルテルがシャルロッテの手首を掴んだ。
「ロッテ」
「離してください……離して」
 細かく震えるシャルロッテの腕を離すと、シャルロッテはウェルテルから数歩下がった。
 ウェルテルが無言でシャルロッテを見つめる。シャルロッテは視線を逸らした。
「ロッテ、」
「待って。来ないでください」
 声が震える。シャルロッテはドレスの裾を握りしめた。
「来ないで、下さい」
「ロッテ――シャルロッテ」
 気が付くとウェルテルに抱き締められていた。
「シャルロッテ、愛してる」
「ウェルテル……」
 シャルロッテには婚約者がいる。それでも、
「……私も」
 それ以上は言えなかった。
 一幕七場は、原作にはない台本独自のストーリーだ。原作では、ウェルテルの思いは綴られているがシャルロッテはウェルテルをどう思っていたのかは分からない。今回の台本では、シャルロッテとウェルテルが両想いであったことにしている。
「私、髪伸ばそうかな……」
 自分の髪を摘まみながら、亜美が言った。この一年、ずっと亜美がショートであったことを知っているあかねは、こう返事をした。
「どうしたのいきなり」
「なんとなくなんだけどね……あかねぐらいまで伸ばそうかなー」
 あかねの髪、綺麗だし。
「いいかもね。亜美のロング見てみたい」
 そんな風に話してるうちに、休憩時間は終わった。
 次の二幕三場は、町を離れていたウェルテルが再びシャルロッテのいる町に帰ってきた場面。
「久しぶり、ロッテ」
「ウェルテル。帰ってきてたのね」
 満面の笑みを浮かべて喜ぶシャルロッテ。その頬にウェルテルが手を伸ばしたところで、第三者の声が掛かった。
「シャルロッテ、誰だいその人は?」
「あらごめんなさい」
 シャルロッテの背後、館の中から現れたのは、良い身なりの茶髪の男性だった。ウェルテルと男性に互いが見えるように位置をずれながら、シャルロッテが続けた。
「アルベルト、この方はウェルテル。ウェルテル、アルベルトよ。私の、夫」
 ウェルテルの目が見開いた。唇は震えていて、みるみるうちに顔が青ざめていく。
「ウェルテル……」
 シャルロッテが息を飲んだ。無意識のうちに左手を唇に当てる。その薬指に光る指輪を見て、ウェルテルは固く目を瞑った。
「ウェルテル……」
 もう一度シャルロッテが呼ぶ。
 瞼を開いてウェルテルは微笑んだ。先ほどまでの震えはもう無い。
「結婚してたんだ。おめでとう、シャルロッテ」
 シャルロッテ、その言葉にシャルロッテは小さく目を伏せた。代わりに返事をしたのはアルベルトだった。
「ありがとう。ウェルテル、だっけ? 話はよく妻から聞いてるよ。いろいろ世話をしてくれたみたいで、ありがとう」
「こちらこそ。君の奥方には大変世話になった。これからもぜひよろしく」
 亜美はその場から動けなかった。アルベルトを夫だと紹介した時のウェルテル――涼太の表情が脳裏から離れない。あれは、完璧に裏切られた、と思ってる顔だった。シャルロッテに向けてるはずなのに、自分自身に向けられているような気分になって、亜美は心が痛んだ。
 そういうことは何度もあった。ウェルテルがシャルロッテに一目ぼれする場面、ウェルテルとシャルロッテがこっそり森で逢引きをする場面、二人で子どもたちと遊ぶ場面。どの時もウェルテルの態度からはシャルロッテへの愛が満ち溢れていて、亜美はこれが誰へ向けられて気持なのか、そして誰の気持ちなのか、分からなくなってきていた。さらに亜美の心をゆれ動かしたのは、シャルロッテが結婚した二幕以降だった。シャルロッテはもう結婚したはずなのに、ウェルテルからの愛情は止むことがない。むしろ激しくなっている。アルベルトが居ない時を見計らってやってくるウェルテルと二人きりになるのが怖くて、シャルロッテはいつも弟妹達を同伴させてウェルテルと出会った。
 思いは叶わないはずなのに、それでもどうしてこんなに真摯に私を愛し続けることができるんだろう。
 涼太の眼を見る度に亜美はそう思った。
 ある日とうとう亜美はあかねに思いを打ち明けた。
「ねえ、あかね……私、涼太のこと好きになっちゃったみたい」
「え、」
 あまりにも意外だったのか、あかねは数秒固まってから聞き返した。
「小暮君のこと嫌いだ、って言ってたじゃない」
「……うん」
 そうなんだけど……
 なんだか照れ恥ずかしくなって亜美は尻すぼんだ。恋愛話なんて高校以来だ。
「それで、告白しようと思って」
 あかねから何かアドバイスが欲しいわけでは無かった。ただ、告白する前に誰かにこの気持ちを伝えておかないと、落ち着かなかった。姉に伝えようかとも思ったが、姉に伝われば両親にも伝わるだろう。ただの片想いの状態でそこまで事を大げさにしたくなかった。
「あのさ、亜美、」
 重い調子であかねが口を開いた。
「小暮君、付き合ってる人いるって」
「え?」
 頭の中で、何かが崩れた音がした。
「そ、うなんだ……」
 喉につっかえて言葉が上手く出てこない。
「ごめん……なんか、公演前にこんなこと言っちゃって」
「ううん、教えてもらえて助かった」
 喉が渇く。飲み物ってどこに置いたっけ?
「告白してから知ったら大変なことになってたし」
 私は上手く笑えてるのかな? 目で飲み物を探す。あった、稽古場の奥。あそこで待機することが多いから置いたんだった。
「ごめんねあかね、飲み物取ってくる」
「あ、うん」
 そういうと亜美は立ちあがって稽古場への奥へと歩いて行った。



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