三
亜美の気持ちとは裏腹に、稽古はスムーズに進み、亜美自身演出に褒められることが多くなった。ウェルテルに恋してる表情が板についてきたね。これが演技じゃないと知ったら演出は何と言うだろうか。涼太は何と言うだろうか。けれど、それを言う勇気も無く亜美は「ありがとうございます」と演技が褒められてことについて礼を言う。
時間は矢のように進んだ。公演の本番は刻一刻と近づいてきた。最後の一週間は特に追い込みで忙しく、朝から劇場に行っては照明と音響のきっかけ合わせや、大道具の位置の調整、小道具や衣装の最終チェックなどが行われた。音響スタッフのあかねとは行動を別にすることも多くなった。立ち位置チェックやリハーサル後には細かい指示が飛ぶことも多く、神経を使う。朝家を出て帰ったら最終チェックだけして寝るという日々になった。むしろこれが助けになったと、亜美は安堵の息をついた。余計なことを考えずに済む。
公演が始まった。
「ウェルテル、手紙を貰って僕は今馬を走らせている。どうかこの手紙の内容が嘘であってほしい」
冒頭は、ウェルテルの友人の独白から始まる。その後、一度暗転してからウェルテルの場面に。町にやって来たばかりのウェルテルが、町内を散歩する場面だ。
本番はあっけないくらいに順調に進んでいく。特に涼太の集中力は今までで一番良い。
一幕二場がもうすぐ終わる。それが終わってライトが点けば、亜美の出番だ。
二場が終わった。ライトが消える。その間に舞台上に踊り出たのは亜美では無くシャルロッテだ。ウィッグを被りドレスを着て化粧をした亜美は、一目見ただけなら別人と見間違えるだろう。立ち振る舞いも現代日本の女性では無く、中世ヨーロッパの貴婦人の動きになっている。
ライトが点いた。
「ほら、取り合いっこしないの。パンはたくさんあるんだから、順番に並びましょうね」
パンを切り分けながら弟妹を見守るその表情は、まさしく母親代わりに頑張る長女のそれだ。
――シャルロッテは、いつも弟や妹たちの世話をしているのですか?
――ええ、幼い弟や妹たちにはまだ母親が必要ですから。
ウェルテルとの出会いの場面が終わる。次は夜会の場面だ。ウェルテルと他の女性二人と一緒に馬車に乗って夜会へと向かう。ウェルテルとの会話はなんて気持ちがいいんだろう、とシャルロッテは感じた。
二人が恋に落ちるまでにはそう長いこと掛からなかった。
――ロッテ、
――待って。来ないでください。来ないで、下さい。
身が引き裂かれる思いでシャルロッテは言った。出来ることなら自分から飛び込んでウェルテルの胸に抱かれたい。それでも、シャルロッテにはそういうわけにはいかない。婚約者との結婚は、亡き母の希望でもあった。
――ロッテ――シャルロッテ。シャルロッテ、愛してる。
――ウェルテル……
泣きそうになった。
――……私も。
どうしてこの人ともっと早くに出会わなかったんだろう。悔やんでもなにも変わらないが、それでもシャルロッテは純粋にそう思った。
――アルベルト、この方はウェルテル。ウェルテル、アルベルトよ。私の、夫。
物語は無慈悲に進んでいく。
――結婚してたんだ。おめでとう、シャルロッテ。
そう言ったウェルテルの目は、稽古の時以上に情愛を奥に秘めていた。
話はそのまま進んでいって、いよいよ終盤だ。拳銃を手にしたウェルテルは、シャルロッテを手に入れるためにシャルロッテの夫であるアルベルトを殺そうとする。さあ行くぞ、そうウェルテルが丘で立ち上がった瞬間に、彼が目にしたのはきれいな朝焼けだった。結局ウェルテルはきびすを返して自分の借りた家へ戻ると、最後に書き付けを残して、自らの命を絶った。
その知らせを聞いたシャルロッテが思ったのは、なぜウェルテルと駆け落ちをしなかったのか、ということだった。駆け落ちまでは行かなくても、どうして「愛している」とウェルテルに言ってあげなかったんだろう。せめて、好きだと告げれば良かった。
亜美の頬を一筋の涙が濡らした。
公演が終了した。
割れんばかりの拍手。暗転の間に役者たちは移動をする。そして明転。
降り注ぐライトの光を浴びながら、役者が順番に舞台上に現れて挨拶をする。はじめは端役から。亜美は最後から二番目だ。もちろん最後はウェルテル役の涼太。
亜美が舞台上に出ると、一層大きな拍手が鳴り響いた。拍手の嵐に呑まれそうだ。お辞儀をして涼太を招く。涼太の登場に、会場はより一層拍手の嵐に包まれた。
演技をするとき以外はあまり笑わない涼太が、今だけは満面の笑みを浮かべている。額に光る汗。
全員で揃ってお辞儀をすると、客席から花束が投げられた。それを上手くキャッチした涼太は、その花束をそのまま亜美に差し出した。
「素晴らしいヒロインに花束を」
普段なら絶対に言わないような台詞を口に乗せて、涼太が花束を示す。亜美は花束を受け取ると、そのうちの黄色い一輪を涼太の胸ポケットへ指した。
舞台の片付けが終わると、そのまま打ち上げへとなだれ込んだ。予約していた飲み屋の座席で、各々が好き勝手に騒いでいる。
梅酒のグラスを持った亜美は、喧噪の輪から抜け出すと、端の方で飲んでいたあかねの隣に座った。
「お疲れさま」
軽くグラスをぶつける。
「準主役がこんな端っこでいいの?」
あかねの顔はほのかに赤い。
「いいのいいの。ずっと囲まれてるんだからちょっと休憩」
そう言ってグラスの中身を一口飲む。お酒に強い亜美は、この程度では何も酔わない。
「涼太のことなんだけど」
切り出せば、あかねの身体が一瞬強ばった。考えれば、ゆっくり話すのは、涼太には彼女が云々の話をして以来久しぶりだった。
「私、やっぱり、告白しようと思う」
意志のこもった口調で亜美は告げた。
「だから何、って訳じゃないんだけど……ほら、あかねには心配かけたから」
だから伝えておこうと思って。
もう一口梅酒を飲む。氷で冷やされた梅酒が喉を通るのが心地よい。
当たって砕けてもいい。むしろその方が良い。そしたら忘れられるから。後悔しないから。
あかねは何も答えない。
「あかね?」
不思議に思った亜美が声をかけたのと、あかねが口を開いたのは同時だった。
「亜美。私、亜美に言わなくちゃいけないことが――」
「おーい、亜美ちゃーん。なんでそんな端で飲んでるんだよー」
あかねの声を遮るように、演出の大声がかかる。その声を聞いた周りの役者や裏方たちも、亜美の姿を認め口々に「こっちにおいでよ」と声を上げた。
「ごめんあかね、また後でね」
声に引きずられるようにして亜美は立ち上がった。そのまま、元の席へ戻る。
結局亜美が解放されたのは、飲み会が終わってからだった。電車に乗って帰らないといけない組のために一次会はお開きとされ、飲み足りないものは数人で集まって思い思い違う店へと散っていった。
電車組の亜美は、二次会の誘いを断って、駅へと向かっていた。準主役だったのだし、みんなと一緒に朝までカラオケで歌ってから帰るのも選択肢の一つだったが、今回は素直に帰りたかった。正確に言うと、帰る、というよりは、みんなと分かれてやりたいことがあった。送っていくよ、という役者仲間の言葉を、駅前は明るいから大丈夫、と断ったのもそのためだった。
駅に向かいながら亜美は携帯電話を取り出した。そのまま操作をして電話帳から目当ての電話番号を呼び出す。呼び出しボタンを押して、携帯電話を耳に当てる。数回鳴った後、コール音は途切れた。
『もしもし』
「あ、もしもし涼太?」
『おう、川崎どうした?』
電話に出たのは小倉涼太だ。
低めの声が、軽く酔った耳には気持ち良い。
「今どこにいるの?」
『今? 駅前だけど……』
どうした? そっちに向かおうか? お前も電車組だろ?
涼太の提案に、亜美は明るい声で応えた。ううん、いいの。大丈夫。
「それより涼太……話したいことがあるの。面と向かっては言えそうにないから、電話で言わせてもらうね」
『なんだよいきなり』
少し笑いを含んだ涼太の声が電話口から聞こえる。
「あのさ、私、涼太のこと好き」
思ったよりもすんなりと言葉は出た。それに反して、心はひどく落ち着かない。開いた左手で服の裾を握りしめる。さっきから、心臓の鼓動の音がうるさかった。
『亜美』
「うん」
返答を聞き漏らさないように、ケータイに耳を一層押しつける。乾いた唇を舐めた。
心音がうるさい。
『……ごめん。俺さ、』
続く言葉を聞いた亜美は、「そっか」とだけ呟いた。
「そっか、分かった。変なこと言っちゃってごめんね」
亜美はゆっくりと腕を下ろすと、涼太の声がまだ聞こえるケータイのボタンを押した。それと同時に、無機物のように黙るケータイ。
「……当たり前か、無機物だもん」
どこか遠くから踏切の音が聞こえる。気付けば下がっていた目線をあげると、踏切が視界に入った。聞こえる音の遠さに反して、その距離は近い。
黄と黒と、無遠慮な赤。
赤い光を主張しながら、踏切が叫ぶ。電車が来るよ。危ないよ。
――ごめん。俺さ、佐々木と付き合ってるから。
つい先ほど聞いた言葉だ。続けて思い出すのはあかねの言葉。
――亜美、私亜美に言わなくちゃいけないことがあるの。
にゃー。
ふと、鳴き声が聞こえた気がした。
亜美が目線を上げれば、そこには確かに猫がいた。闇を溶かしたかのような、きれいな黒。
「ヨハン……」
呟けば、視界が歪んだ。亜美の思いのようにあっという間に膨らんだそれは、溢れて亜美の頬を濡らした。
「ヨハン……」
黒猫に向かって、一歩を踏み出す。逃げる気配のない猫は、むしろ亜美を誘うように「にゃあ」と一言鳴いた。
「ヨハン……ヨハン……」
いつの間にか小走りになって黒猫へ駆け寄る。そのまま手を伸ばせば、黒猫はおとなしく亜美の腕の中に納まった。
「ヨハン……ヴォルフガング・フォン・ゲーテ……」
そばにいる黒猫にも聞こえるか聞こえないかの音量で呟いて、亜美は優しく黒猫を抱きしめた。
「君は良い子だね。私を慰めてくれるんだね」
亜美が言うと同時に、黒猫はするりと亜美の腕の中から身を抜け出した。
「ヨハン?」
「――危ないっ!」
「え?」
いきなり聞こえた声に亜美が視線を上げると、ものすごい形相でこちらを見つめる涼太。耳を打つのは先ほどまで聞こえていないと思っていた、音。何気なく右を向けば、視界を埋めるのは、電車。
「――え?」
衝撃が亜美の体を走った。何が起こったの?
訳も分からず宙に飛ばされた亜美が、地面にたたきつけられる前に最後に聞いたのは、
――にゃあ。
黒猫の声だった。
了
2013/07/16 完成
2014/06/20 サイト掲載