一
「私、あの人好きになれない」
唐突に亜美が口を開いた。二重の瞼は今は軽く伏せられていて、黒曜の瞳を半分ほど覆い隠している。縁取るまつげにはアイラインがシンプルに引かれている。全体的に薄めのメイク。身に着けている紺のジャージに馴染んでいるといえば馴染んでいる。
「あの人って?」
隣で台本に書き込みをしていたあかねが、尋ねた。顔をあげたのと同時に金色のイヤリングが揺れる。
「ウェルテル」
リノリウムの床に座ってストレッチを続けながら、亜美は答えた。
亜美の口から出たドイツ風の名前に、あかねは二三度瞬きをして、
「……ああ、小暮君?」
とわざとらしく手を叩いた。
「そう」
「なんで?」
脇腹を伸ばしていた動きを一度止めて、亜美は呟いた。
「なんで、って……あの人、何考えてるか分かんないし」
ストレッチを再開しながら、亜美は小暮の姿を思い浮かべていた。平均よりも少し高い身長、筋肉質でがっしりとした体格。短く切り添えられた黒髪。
「確かに、無口だよね。小暮君」
そう言いながらあかねは、台本のページをめくる。その爪の先には、赤が塗られていた。
急に廊下が騒がしくなった。休憩に行ったメンバーが返ってきたのだろう。亜美が支店を入り口に向ければ、予想通りに見知った顔が帰ってきていた。ということは、
「稽古開始一分前です」
「はーい」
あかねと共に返事をして、亜美は立ち上がった。
「じゃあ」
「うん、またあとで」
軽く別れの挨拶をしてから、役者である亜美は、稽古場の中央へ、音響スタッフであるあかねは稽古場の隅に作られた音響スペースへと向かう。
亜美が所属している劇団は、中小劇団の中ではそこそこ有名な劇団だ。劇団のスタンスは一貫として、「文学を舞台化する」というものだった。「ロミオとジュリエット」「源氏物語」「走るメロス」などなど、舞台背景や時代にはこだわらず選んでいく。ただ、そのうえでこの劇団が評価されているのは、節々に散りばめられた劇団オリジナルストーリーだ。もちろん、今回の「若きウェルテルの悩み」にも、オリジナルストーリーは組み込まれている。
ドイツの有名な文豪ゲーテが書いた『若きウェルテルの悩み』は、とある青年ウェルテルが、シャルロッテという女性に恋する物語である。人づきあいが嫌になり地元を飛び出して療養に出かけた絵描き志望のウェルテルは、そこで美しい女性シャルロッテに出会う。しかし、彼女にはかつてから婚約者がおり、ウェルテルが一時期別の街で役所勤めをしている間に結婚をしてしまう。再びシャルロッテのいる土地に戻ってきてそのことを知ったウェルテルは、叶わぬ恋を嘆いて自殺する。当時ベストセラーとなった本だ。
「じゃあ一幕三場から」
演出の指示に従って、亜美は自分の立ち位置へ立った。軽く深呼吸する。亜美はこの瞬間が好きだった。亜美から役になる瞬間。手が叩かれれば、そこは別世界だ。
「準備は良いか?」
一方小暮は舞台の外で出番を待っている。
一幕三場はシャルロッテとウェルテルが初めて出会う場面だ。弟妹たちにパンを切り分けるシャルロッテに、ウェルテルが一目惚れをする場面。
シャルロッテの母親はつい数か月前に亡くなったばかりで、それ以来シャルロッテが母親の代わりとして、幼い弟妹達の面倒を見ていた。毎日しているように、今日も屋敷の中でシャルロッテがパンを切り分けていると、彼女の父親に会いに来たウェルテルが屋敷の中にやって来る。その慈愛に満ちた仕草にウェルテルは一目で恋に落ちるのだ。
「御父上にはいつもお世話になっております、ウェルテル、と申します」
小道具の帽子を小脇に抱えながら、ウェルテル役の小倉が挨拶をする。
「シャルロッテと申します」
応える亜美も、亜美ではなくシャルロッテの顔をしている。
「シャルロッテは、いつも弟や妹たちの世話をしているのですか?」
「ええ、幼い弟や妹たちにはまだ母親が必要ですから」
にっこりとほほ笑みながら応えるのは、れっきとしたシャルロッテだ。
これこそが演劇の魅力であると亜美は確信している。自分とは別の人物になれることが、現実にはありえない情景を現実に息吐かせることが、人々が演劇に囚われてしまう魅力であると亜美は考えていた。
亜美が初めて演劇の舞台を見たのは、小学校三年生のころだった。母親に連れられて車で五十分かかる劇場まで行き、そこで初めての演劇を見た。その時の感覚は今でも覚えている。舞台の上で人間が実際に生きているようだった。確かに生きてはいたのだけれど、そうでは無く、キャラクター自身が生きて動いていた。目の前で繰り広げられていることは、フィクションでもなんでもない、リアルタイムで行われているような現実で、亜美はその世界に魅了された。ドラマよりも映画よりもリアルなその現実は、亜美の心を掴んで離さなかった。
亜美、どうしたの?
母親に聞かれて初めて自分が泣いていたことに気が付いた。それくらい、劇内の主人公の叫びは悲痛なものだった。公演の後、母はパンフレットを買ってくれたが、結局一度も開かないままに終わった。役者のインタビューなどに興味なんて無かった。代わりに一緒に買ってもらった原作の本を開いた。一晩で読み切ったその内容は、おもしろくもあったが、やはり劇の魅力には叶わなかった。次の日の朝、亜美は言った。おかあさん、わたしもえんげきをしたい。
以来亜美は舞台の上で生きている。
昼の稽古は三時で一度休憩が入る。結局やったのは、 シャルロッテとウェルテルが初めて出会う一幕三場と、その続きで二人が夜会に参加する一幕四場だった。
亜美はペンと台本を抱えて稽古場を出た。周りのみんなは思い思いに休憩している。
劇団付属の稽古情が無いため、借りて使っているこの場所は、建物全体を上から見るとアルファベットのHのような形になっている。短い横棒の部分の両側が入り口になっており、北側の長い横棒が劇場と控室、反対の長い横棒が稽古場だ。稽古場は大きさがいくつかあって、亜美たちが借りているのは一番大きな部屋で、建物の南西、Hの右下に位置していた。
亜美はそこから、出入り口に向かって歩いていた。すれ違う団員の顔をチェックしながら、ここではないここにもいない、と歩き続けていた。
「どうしたの、亜美」
声を掛けてきたのは、あかねだ。どうやら化粧室から帰ってきたところらしい。
「小暮探してるんだけど、見てない?」
軽く台本を掲げながら尋ねれば、それだけで意図を把握したらしく、あかねは「ああ、」と一度頷いた。
「小暮君ならさっき、外に出るのを見かけたよ。東口」
「ありがと!」
軽く礼を言ってあかねを後に、少し駆け足になる。休憩時間は短いから、時間が惜しい。
あかねに教えてもらった通りに東口から外に出る。周りを見渡せば、建物の陰から足が一本見えていた。小暮が履いていた靴だ。
「小暮。さっきのとこなんだけど――」
角を曲がりながら秋は声を掛けたが、小暮の姿が目に入った途端、言葉を切った。
「川崎?」
不思議そうに亜美を見上げる小暮の手にはタバコが一本。丁度火を付けようとしているところだった。視線を横にずらせば、しっかりと灰皿が置かれていて、どうやら喫煙所のようだった。
しまった。亜美は心の中で呟いた。
亜美はタバコが嫌いだった。煙も臭いも、そして何より喉に悪い。役者の敵だ。
「タバコ、吸ってるんだ」
亜美は小暮の手元を凝視しながら尋ねた。先が燃え始めている。小暮だって役者のはずなのに。
「ああ」
小暮は亜美の目線を辿るようにして自分が持っているタバコに目を向けると、そのまま灰皿に押し付けた。
「ああ、吸ってる。……で、なんか用か?」
「あ、うん。ここなんだけど」
台本を開いてペン先の出ていないボールペンで示す。亜美が小暮に示したのは、先ほど稽古をした一幕三場だ。
小暮が軽く眉をひそめる。
――ああ、嫌だ、その表情。
小暮の眉間に酔った皺をちらりと見てから、亜美は再び視線を台本に戻した。そのまま何も気づかなかったような顔で会話を進める。役の解釈について。ここは、ウェルテルの気持ちを出すために次の台詞を言うまでにもう一拍置いた方が良いんじゃないか、とか、この台詞はウェルテルを見ずに言いたいからそこに立たないでくれ、だとか。
A四サイズの縦向きの紙に、刻まれているセリフたち。その隙間を縫うように書かれた書き込みで、ページは黒い。演出に指導された部分もあるが、大半は亜美が自主的に書き込んだものだ。このときシャルロッテはどう思っているのか、そう思っているならどう動くべきか、このウェルテルの台詞に対しては、などなど、そこにはシャルロッテに対する亜美の熱意が書き込まれていた。
「――って感じなんだけど、どう思う?」
亜美が小暮に視線を戻すと、眉間の皺はさらに深いものになっていた。
沈黙が流れる。
「……ねえ、どう思う?」
返事の無いことに焦れて亜美が急かすと、小暮はあー、だの、うー、だの不明瞭の言葉を発した。そしてそのまま押し黙る。結局、急かしても待っても、小暮は何も話さなかった。焦れた亜美は音を立てて小暮から台本を奪い去ると、稽古場へと戻った。
「あの、何考えてんのか分かんない態度が嫌なの! 実際何も話さないしさ」
稽古の帰り道、携帯電話に向かってぼやきながら亜美は駅へと向かって歩いていた。夕暮れ時の道は、買い物帰りの主婦や学生、散歩に出た老人などで賑わっていて、携帯電話で話す亜美を誰も気にしない。
『めずらしいね、亜美がそこまで言うなんて』
電話口の向こうで姉が苦笑しながら言う。妹の怒りが一過性であることを知っているからだろう。
「だって悔しいんだもん。役者の癖に、何も考えてないのか、って言ってやりたかったよ」
せめて返事くらいしてくれてもいいんじゃない?
『確かにねー』
亜美の愚痴を聞きなれている妹は、あっさりと相槌を打った。
だんだん人通りが増えてくる。駅が近いからだ。
『でもさ、その……小暮君、だっけ? 彼も彼なりに考えてると思うよ。ただ無口なだけで』
「そうかなー」
『私の友達にもそういう人いたもん』
ちょっと厄介なんだよねー。
冗談めかして姉が笑う。
姉とは二歳離れている。大人になった今は二歳なんてなんの差にもならないけど幼いころ、二歳の差はとても大きかった。それこそ小学校上がったばっかり時は、ランドセルを背負いなれている姉は憧れの対象だったし、怖い犬からも守ってくれる素敵なお姉ちゃんだった。その名残からか、大人になった今でも少し甘えてしまう。
『ところで亜美、もしかしてその小暮さんに気があるんじゃない?』
「えぇ!? そんなわけないじゃん」
思わず空いている右手をひらひらと振りながら亜美は答えた。私が小暮を好き? そんなわけないじゃない。考えた傍から鼻で笑ってしまうような想像だ。
そんな亜美の心中を知ってか知らずか、少しからかうような口調で姉は続けた。
『だってほら、返事してほしい、なんて、こっち向いてほしい、っていうのの典型的パターンでしょ』
「無い無い、絶対に無い」
『そこまで否定しちゃう? 小暮君かわいそー』
いいの、別に。亜美がそう言おうとしたところで、姉が話を続けた。
『なんて冗談は置いておいて、とりあえず亜美、彼氏とか作りなよ。お母さんたち心配してるから』
「いいの。役者の恋人は舞台なんだから」
『そんなこと言って』
「あ、もう駅だから切るね」
そう言って、いまだに声がする携帯電話を耳から離し通話終了ボタンを押した。
駅に着いたのは事実で、別に話題から逃げたかったわけじゃない。実際、彼氏なんてしばらくいらないし、演劇が出来ればそれでいいと思っている。
駅構内の階段を上りながら、出しやすいところに入れておいたパスモを取り出す。さて、次に来るのは何分の電車かな。亜美は電光掲示板を見上げて絶句した。
【線路内に人が立ち入ったため、運転を見合わせております】
再開するのは何時間後か。
今がまだ夕方で良かったと思いながら、亜美は踵を返した。この調子だと違う路線で迂回して帰った方が早い。
結局亜美がアパートにたどり着いたのは、夜も更けてからだった。