――私が初めて貴方と出会ったのは、桜が舞い散る帰り道でした。
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つい先日まで咲き誇っていた桜の花弁が、一枚、また一枚と宙に舞う。
それは、私の大好きな風景の中の一つでした。
はらりはらりと風に乗ってたゆたう桜の花弁が、なぜだか分かりませんが無性に好きだったのです。
当時、私は女学生でした。女学生と言ってもスカートなんてものはありませんから、制服はもちろん袴に着物でした。
女学校からの帰り道、私はとある川の側を通ります。川の名前は今でも知りません。
ただ、その川の片側には川に沿って何本もの桜の木が植えられていましたので、私は密かにその川のことを「桜川」と呼んでいました。
今考えると安直な名付け方ですが、当時の私はその名前にとても満足していました。勿論、桜川と呼ぶのは心の中だけでしたが。
その日も私は、桜を見ながら一人、桜川のほとりを歩いていました。
風が少し強かったため、はためく袴に足を取られないようにしながら歩いていたのを覚えています。
散った桜の花弁が、私の髪や肩、持っている風呂敷にそっと降り立ちます。
まるで雪のように舞い降りてくる花弁は、しかし雪のように消えることなく再び風に舞い上げられていました。
あまりその道は使われていなかったのか、それまで私は、川の傍で人と会うことはありませんでした。
そのせいか、特に桜が舞っている日には、違う世界に迷い込んだような、そしてその世界を独り占めしているような、そんな気持ちになることもありました。
そうやっていつもは、ほんの少しの満足感とともに桜の花弁を浴びながら帰るのですが、その日はいつもと違いました。
人が一人、散り行く桜を見上げていたのです。
私は少しむっとしました。ちっぽけな独占欲があったのでしょう。その人が私の世界に無断で踏み込んで来た気がしました。
私は文句を言うためにその人のところへ歩みを少し早めました。
なんと文句を言うつもりだったのか、それは全く覚えていません。
しかしまあ、当時の私はよくもそんな強気なことが出来たのだろうと思います。
私の行動が、その人にとって理不尽なものになりうる行動だったからではありません。その人が軍人で、さらに外国人だったからです。
金色の髪に見たことも無い軍服。さらに見上げるほどの高い背。鬼と見紛うその姿に、今の私なら声を掛けようだなんて絶対思いません。
しかし、当時の私は無謀にもその男性の側まで行き、文句を言おうと口を開きました。しかし、結局私が文句を言うことはありませんでした。
「桜と言うものは、なぜこんなにも儚いんだろうね」
外国人さんのその言葉に遮られる形になったからです。
その外国人さんは別段私に言ったわけでも無いらしく、相変わらず桜を見上げていました。
その横で外国人さんを見上げている私の中から、気が付くと文句を言おうという気はすっかり無くなっていました。
目の前にいた外国人が流暢に日本語を話したことに驚いたからではありません。外国人さんが発した言葉に嬉しくなったからです。
「儚いと……桜が儚いと貴方も思いますか」
思わず私は声をかけていました。もちろん、外国人さんは驚いたように私を見ました。
私は外国人さんを見上げながら続けます。
「今まで何人かの人に桜の印象を聞いたことがあるんですけど、儚いと言う人はいなかったんです。歌の影響もあるのかもしれないんですけど大抵の人は潔いって答えるんです。えっと、だから……」
勢いで話し始めた私は、結局尻すぼみになってしまって最後まで言うことができませんでした。
途中で自分の不躾さに気が付いて恥ずかしくなったからです。
いきなり知らない人に捲し立てられた外国人さんは、どう思ったでしょうか。
恥ずかしさで口を噤んだまま私が俯いていると、ふと私の頭に手が乗せられました。
顔を上げると、外国人さんの顔がすぐ傍にありました。どうやら、私の身長に合わせて屈んでくれたようでした。
「だから?」
優しい口調で促すように外国人さんは言いました。
「だから……」
私は一度言葉を切ると、初めに続けようと思っていた言葉と違う言葉を投げかけました。
「貴方は、桜をどう思いますか」
私が言い終わると同時に、辺りを突風が駆け抜けました。多くの桜の花弁が舞い上がり、いくつかの桜は川に流れていきました。
顔にかかった髪の一房を耳に掛けていると、花弁の行方を追っていた外国人さんは私に向き直り、
「儚いと思うよ」
そしてふわりと微笑みました。
次の日、同じように桜川のほとりを歩いていると、再びあの外国人さんが桜を見上げていました。
「桜がお好きなんですか」
声をかけると外国人さんは、ふわりと微笑みました。
「そうだね、一番好きな花かな」
「貴方の国にも、桜があるんですか」
私の問いに、外国人さんは悲しそうに首を振りました。
「残念ながら、僕の国には咲いていないだろうね。少なくとも、咲いているという話は聞いたことが無いから」
「そうなんですか」
いつの間にか私と外国人さんは、並んで歩いていました。
今思えば、外国人さんは私の歩調に合わせてくれていたんだろうと思います。私と外国人さんの足の長さはあまりにも違い、けれども私が必死になって外国人さんを追いかけるということはありませんでしたから。
「なら、日本に来て初めて桜を見られたんですか」
「うん」
外国人さんのことを少しでも多く知りたくて、私は質問を繰り返していました。もちろん、出会ったばかりでしたから、あつかましい質問はしないようにと気は配っていました。けれども、それならばせめて質問することが許されるところまで、という気持ちは常にありました。
「どうして今日もここにいらっしゃったんですか」
尋ねながら私は、隣を歩く外国人さんを観察していました。自然と私が外国人さんを見上げる形になります。
金色の髪は陽を浴びて輝く稲穂のようで、軍服の色は深い緑でした。年齢はよく分かりませんでした。私たちと顔のつくりが違いますから。ただ、少なくとも私と同じ歳ということは無いでしょうし、それほど歳を取っても見えませんでしたから、きっと二十歳代だったのではないかと思います。
「ここの桜は綺麗だからね。それに、君にも会えるかと思ったから」
聞き間違いかと思いました。私が外国人さんと会いたいと思うことはあっても、外国人さんが私に会いたいと思うなんてことは絶対無いことだと思っていましたから。
その言葉になんて答えたかは覚えていません。ただ、私の言葉を受けて外国人さんが明るく笑っていたので、きっと「お上手ですね」とでも返したのでしょう。いえ、もしかしたら何も答えられずに顔を赤くしてうつむいていただけかもしれません。
確か、話を反らすために私はまた質問しようと口を開いたと記憶しています。
「貴方は――」
「Robertだよ」
私の言葉をさえぎって、外国人さんが何かを言いました。けれども、何を言ったのか私には理解できませんでした。
唐突なその言葉を聞き取れなかったからでは無く、その言葉が慣れない異国の響きだったからです。
私が何も言えずにただ外国人さんの顔を見上げていると、意味が通じていないことに外国人さんは気付いたようでした。
「ごめんごめん。いきなり言われても分からないよね」
外国人さんは苦笑すると、改めて口を開きました。
「Robert――それが僕の名前だよ」
外国人さんが言ったその一言が外国人さんの名前だということは分かりました。が、当たり前ながらそれは日本語には無い発音でした。
「ろばつ」
とりあえず聞こえたように発音してみると、外国人さんは困ったように腕を組みました。
「んー。ちょっと違うな」
そして外国人さんは、もう一度、ゆっくりと発音してくれました。
「Robert」
「ろばーつ」
「惜しいね――Robert」
「ろばーと」
「それが一番近いかな」
数回のやり取りの末に私がそう発音すると、外国人さん――ロバートさんは満足そうに微笑みました。
ロバート、ロバート。
忘れないように口の中で繰り返していると、ロバートさんが私に尋ねました。
「君の名前は?」
苗字も言うべきかどうか迷った私は、少し考えた後、結局名前だけを言うことにしました。氏名を答えてそれが全て名前だと思われるのが嫌でしたし、それになにより、ロバートさんに名前を読んで欲しかったからです。
私が名前を答えると、私がそうしたように、ロバートさんも口の中で数回私の名前を繰り返しました。
ロバートさんが私の名前を呼ぶ度、私は無性に嬉しくなるのを感じました。
「綺麗な名前だね」
そうロバートさんは言いました。「僕の国には無い、綺麗な響きだ」とも。
私の心が嬉しさで一杯になったのは言うまでもありません。
ただ、そのことを表に出すわけにも行きませんでしたから、ただただ風呂敷を握る力を強めるだけでした。
気が付くと、桜川はもう終わりに近づいてきていました。川が無くなると言うことではありません。川沿いの桜がもう少し先で途切れていると言うことです。川はどこまでも続いていきます。けれども桜が植えられているのは、少し先の交差点までです。ですから「桜川」の終わりなのです。
私は桜が途切れたところで左に橋を渡りますが、ロバートさんはどうなのでしょう。そう思って私は口を開きました。
「「あの」」
どうやら、ロバートさんも同じ事を考えていたらしく、言葉が重なりました。そんな些細なことを幸せに感じながら、私は先を譲りました。
「僕はそこの桜が終わるところを右に曲がるけど、君は?」
「私は、左に曲がります」
話しているうちにも交差点は近づいてきます。
「じゃあ、そこでお別れだね」
「……はい」
ずっと並んで歩けるだなんて思ってはいませんでしたが、それでもやはり悲しいものです。
名残惜しく思いながら、私はおもわずため息をつきました。
「さっき、何を聞こうとしてたのかな?」
いきなりの質問に、意図が掴めず私はただロバートさんを見上げるだけでした。
「さっき、僕が名前を教える前に何かを聞こうとしてたでしょ?」
ああ、そのことですか。
「大したことではないです。ただ、ロバートさんの国について知りたいな、って思っただけて」
「それじゃあ――」
交差点までき来た私たちは、立ち止まりました。もう、お別れです。
「――僕の国については、また明日話そうか」
「はい」
「じゃあまたね」
「はい」
そう言ってロバートさんは立ち去っていきました。
私はしばらくの間そこに立ち竦んでいました。
何が起こったのか、よく分からなかったからです。
明日もロバートさんと会えるということに気付いたとたん、急に涙が溢れて来ました。
なぜだか分かりませんが、ただただ涙だけが溢れて来ました。
静かに涙は流しながら歩く私の頭の中は、ロバートさんのことで一杯でした。
ロバートさんの目は、海を溶かし込んだかのような青い色でした。
そして次の日。
ロバートさんは、その日も桜を見上げていました。もちろん、桜川のほとりで。
その日はロバートさんのほうから私に声を掛けてきました。
「もうすぐ桜も散り終わりだね」
「……そうですね」
確かに辺りを見回すと、薄紅色の花はほとんど散っていて、少しずつ葉が顔を覗かせていました。
「僕の国のことだったっけ?」
「はい」
覚えて下さっていたことが嬉しくて、私は弾んだ声で返事をすると、ロバートさんはにっこり笑って話し始めました。
ロバートさんが話す外の国のことは、私の想像をはるかに超えていました。
海を越えた先にある街の風景や人々の営み、日本とまったく違うと言う食べ物や娯楽。その全てが新しく感じました。
鎖国が終わり、新しい外国の風が日本に入ってきてからしばらく経ちますが、それでもやはり知らないことのほうが多かったようです。
ロバートさんが国のことを話し終わると、今度は私の番でした。ぽかぽかと照りつける陽光を浴びながら、私はこの国について話し始めました。
国、と言っても私は女性ですからそれほど国と言うものに関わる事はありません。ですから、私は自分の身の回りの話をしました。
家族のことや友人のこと、学校の授業や移ろいゆく四季の楽しみ方。
私の話を聞いているロバートさんは、時折懐かしそうに遠くを見ながら、ふわりと笑みを零していました。
「そういえば、ロバートさんはどうして桜が好きになったんですか」
日本の話をあらかたし終えたところで、私は尋ねました。
「初恋の相手が、桜を好きだったんだよ」
心が、ずきりと痛みました。
「小さい頃に一度だけ、日本に来たことがあってね。そのときにここで出会った女の子が、桜を好きだと言っていたんだ。桜は儚いから好きだと」
そう言ってロバートさんはまた、ふわり、と微笑みました。
心臓の音がやけに耳の側で聞こえます。心臓が飛び出さないようにと、私は左手で軽く胸を押さえました。
「その女の子とは、今でも連絡を取り合ってるんですか」
「いいや。……その子と会ったのはその日だけだったから」
気持ちが晴れたのは一瞬だけでした。
「だから僕は今でも探してるんだよ。桜の側にいるんじゃないか、ってね。未練がましいと思うかもしれないけど」
そう言ってロバートさんは、照れくさそうに頭をかきました。
その言葉が、その行動が、嫌だと思いました。私の見知らぬ彼女に向けられるその思いが。
そして同時に、この気持ちはなんなんだろうと思いました。ロバートさんの一挙一動に一喜一憂するこの気持ちは、なんと表すのだろうと。
気が付くと、もう、分かれ道へと来ていました。
「今日も楽しかったよ、ありがとう」
そう言って離れていくロバートさんの背中に、思わず声を掛けていました。
「あのっ」
「何かな?」
けれども私は、言葉を紡ぐ事が出来ませんでした。自分の気持ちすら言葉に出来ない私が、ロバートさんになんと言えばいいのでしょう。
「……いえ、なんでもありません」
結局私は、そう答えるしかありませんでした。
「そう、じゃあね」
ロバートさんは改めてそう言うと、私に向かって(・・・・・・)ふわりと微笑んでから去っていきました。
私は、ロバートさんの背中を無言で見送りました。
ロバートさんの別れ際の言葉が「またね」では無く「じゃあね」に変わっていたことには、既に気付いていました。
次の日。
桜は、全て散ってしまっていました。
ロバートさんは、どこにもいませんでした。
次の日も、そのまた次の日も、ロバートさんが現れることはありませんでした。
ロバートさんが幼いころに会ったと言う女の子が誰なのか、私には分かりません。幼いころの記憶は、おぼろげにしか覚えていないものですから。
今になっても分からないことはもうひとつあります。
ロバートさんに向けたあの思いは、果たして。
□■□
――恋だったのでしょうか。
【注釈】 傍点が付いていた部分をかぎ括弧でくくりました。
ロバートさんは改めてそう言うと、「私に向かって」ふわりと微笑んでから去っていきました。
090526 執筆