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王国最後の国王と魔女

 毒を飲め、と男が言った。
「なぜ私がそのようなことをしなくてはならないのでしょうか」
 男の言葉に、女は背筋を伸ばして立ったまま凛として答えた。
 城の外れに築かれた高き塔。その天辺に女が幽閉されて、そう短くない時間が既に過ぎた。陶磁のように滑らかな白い肌は痛み、陽光を集めたかのような金の髪は艶やかさを失っている。両の手には無粋な手枷がはめられ、左足に繋がる鎖は女を決して放たないようにと壁に繋がれている。塔の高さからすれば逃げられるはずもないのだが、それでも窓には鉄格子がはめられ、女には切り取られた空しか見ることが出来ない。以前よりも女の体は幾分も痩せ、唇も荒れ切っている。どう考えても幽閉生活で女は疲れ切っているはずのだ。
 それなのに。それなのに女の藍色の瞳は相変わらず強い意志の光を灯している。くじけることなく昔と変わらぬ矜持を保っている。それは、男がいつ見ても同じことだった。女が幽閉される前も、幽閉された後も。
 面白い、と男は心の中で呟いた。何度見てもこの女は面白い、と。
「何を笑っていらっしゃるのでしょうか」
 女の声が凛と響いた。どうやら、男は知らず知らずのうちに笑ってしまっていたようだ。
「面白い女だなと。そう思ったのだ」
 どうすればこの女の矜持を折ることが出来るのだろうか。どのような状況なら、この女の瞳から光が消えるのだろうか。
 男が毒を持ち出したのは、女を屈伏させるためだった。死を前にすればさすがの女も折れるだろうと思ったのだ。
 塔の中にある少ない家具。そのうちの一つである机の上に置かれた一つのグラス。なみなみと注がれた赤いワインの中には、人一人を殺すのに十分すぎるほどの毒が混ぜられていた。
「私が面白いとおっしゃるなら、私を未だに生かしている陛下はどうなのでしょう。国に害を与える魔女など、早々と殺してしまえばいいのです」
「だからこそ、毒を持って来たのではないか。お前の望むとおり、お前を殺してやるために」
 男――国王が腕を組んで壁にもたれると、自らのことを魔女といった女は、じゃらりと鎖を鳴らしてベッドの上に腰を下ろした。全てが鉄で出来た手枷は、女にはあまりにも重い。女が自らの膝の上に置いた手に嵌められている枷に書かれているのは、魔術封じの聖句。
 男は窓からちらりと国を見下ろした。
 本格的な魔術師狩りが始まったのはほんの数年前のことだった。しかし、その予兆は確かに昔から現われていた。昔々――それこそこの国が出来始めたころ、魔術師たちは「術師」として崇められていた。だが、聖職者達によって術師が魔に通じる者として貶められるようになったのはいつの時代のことだったか。名称も時代と共に「術師」から「魔術師」へと代わり、彼らの印象は下がり続けていた。聖職者達にとって、聖なる御業が使えるのは神に仕える自分達だけでなければならなかった。それは、信仰的にも、お布施と称して集める金の額的にでもあった。
 魔術師狩りが始まり、術師たちは魔に魂を売った邪な者、民の心を誑かす者と言われるようになった。当時国王はそれが間違っていることだと知っていた。自らの後宮や、執務官達の中にも術師は幾人かいたが、国王には彼らがどうしても疎ましい存在だとは信じられなかったからだ。ただ、当時の国王はまだ即位したてで若かった。若輩の国王が、何を言っても無駄であろう事はどう見ても明らかだった。
 ならば今ならば――たまに国王はそう考えることがある。自らに現在のような力があればまだましだったのだろうかと。しかし、結果は同じだっただろう。国王が魔術師狩りを止めるにしては、聖職者達の権力は既に抑えきれないほどに膨らんでしまっていた。結果、国中の魔術師は捕らえられ殺され、あとは目の前の女一人となった。
「早く飲め」
 目線を下げたままの女に、国王は顎でグラスを示して言った。
 女だけを生かして捕らえたのは、国王の気まぐれだった。常に凛として自分の目を見据える女を、もう少し見ていたいと思ったのだ。
「なぜ、私が毒杯などを煽らなくてはいけないのでしょうか」
 女の声がほんの少し震えていた。それは本当に微かな震えだったが、女の声が震えたという事実はあまりにも国王を驚かせた。
 見ると、女は目線を少し下げ唇を噛み締めている。
 後宮に女が嫁いできてから数年。他の女達のように媚びることも欲することもせず、常に女は国王の目を見つめていた。その度に国王は女に興味を抱いた。面白い女だと。幾度甘い言葉を囁こうと、幾度贈り物を送ろうと、幾度脅してみようと、女は声はいつも凛として響いていた。
 国王が女を生かしたのは、その声があまりにも国王の耳に心地良く聞こえていたからなのかもしれない。しかし、決して凛として震えなかったはずの女の声が、震えた。
 ――やはり死は恐ろしいか。
 国王は、急激に女への興味が冷めていくのを感じた。どれだけ凛としていても、どれだけ背筋を伸ばしていても、たとえ術師であったとしても、女は結局、か弱いただの女でしかなかったのだ。
 どうでもいい、と国王は思った。女が毒杯を飲まなくとも、死ぬのが少し長引くだけなのだ。むしろ明日の命に震えるほうが何倍もいいだろうとさえ思った。けれども、そのためにわざわざ毒杯を持って帰るのも国王は煩わしかった。
 結局国王は無言で女に背を向けると、扉に手をかけた。
「お待ち下さい」
 女が固い声で国王を引き止める。けれども、その声にも震えが含まれているように感じて、国王は急いで扉を開けた。これ以上、震えた女の声を聞きたくはなかった。
「お待ち下さい!」
 女が声を荒げた。それは、国王が初めて聞く女の叫びだった。
「どうして陛下は私を殺さないのですか。どうして私に毒杯などを勧めるのですか! 毒などと楽な方法で殺さずに、他の者達にそうしたように群集の目の前で私を惨たらしく焼き殺せば良いではないですか。私を臆病な女だと思っているから楽に死ねる方法を勧めているのでしょう? ふざけないで下さい。私にも一抹の矜持というものがあります。亡くなった術師たちを尻目に易い死などは選びません。早く、一刻も早く、その慈悲深いと詠われている手で、私をむごたらしく殺せばいいではないですか」
 語気は違うものの、女のその声は凛として国王の耳に響いた。
 驚いた国王が女に向き直ると、そこには光を宿した女の瞳があった。昔と変わらない、ただまっすぐに見つめ返してくる瞳が、そこにはあった。
 これだ。自分が求めているのはこれなのだと、改めて国王は知った。
「死ぬのが怖くないと?」
「陛下が腰の剣を貸してくださるのだというのなら、私は自らの腹を何度も刺して死にましょう」
「それは困るな」
「なぜですか」
「なぜ?」
 なぜ女が死ぬと困るのか、国王には分らなかった。なぜ困ると答えたのか、国王には分らなかった。国王は代わりに口角をわずかに上げると、鼻で軽く笑った。
「お前を見ていると退屈しないからだ」
 その言葉は真実ではなかったが、事実ではあった。
 少なくとも、聖職者達の嫌味を受けながらも女を生かそうと思うくらいには。
「ならば、私は今すぐ死にましょう。陛下を喜ばせるためだけに生き続けるだなんてまっぴらごめんです」
 女はおもむろに立ち上がると、先ほどまで目もくれなかったグラスを、枷のついたその右手で掴んだ。そのまま、迷うことなく呷る。
 物が割れる音がした。
 床の上では割れたワイングラスが散乱し、グラスの中に残っていたワインが床を赤く濡らしている。
 女の体からは力が抜け、そのままどさりとベッドの上にへたり込んだ。
「……どうして、邪魔をしたんですか」
 女は国王を睨み付けた。
「どうしてだろうな」
 理由は国王自身にも良く分からなかった。
 国王は、自らの右手を不思議そうに眺めた。女がワインを呷ろうとした時、国王の右手は無意識のうちに女の手からワイングラスを弾き飛ばしていたのだった。
 国王の表情に、国王自身が困惑していることを理解したのだろう、女は追求をしなかった。
 数拍の沈黙。
 先に口を開いたのは女だった。
「これ以上お戯れに付き合ってられません。お引き取りくだ――」
 ただ、女は言葉を最後まで口に出来なかった。
 国王の手によって顎が固定される。息がかかるほどの近さに、国王の顔があった。
「……お前を愛しているからだと言ったらどうする?」
 言ってみると思いの外すんなりと納得出来た。この独占欲とも言える思いは、確かに愛なのだと。
 それは、国王が生まれて初めて知った感覚だった。
「私が、お前に惚れてるといったらどうする」
 確認のためにもう一度口に出してみる。出してみるとそれが真理のような気がした。
「――ふざけないで下さい!」
 女の掌が、国王の頬を打った。乾いた音か部屋に響き、じゃらりと手枷の鎖が鳴った。
 女の頬は上気している。それすらも愛おしい、と国王は感じた。
 女を支配したいと思っていたのは、愛おしいと思うが故だったのだ。
「どうすれば、お前に信じてもらえる?」
「ならば枷を解いては下さいませんか?」
 じゃらり、と手枷を持ち上げて女が言った。国王は無言のままその手枷を見つめている。
 枷を外すなんてそんなこと出来るはずが無い、と思いながら女は告げた。枷は封印の証。それが無くなれば女が術を使うだろうことは誰が見ても明らかなのだから。
 しかし、女の思いとは裏腹に、国王は無言のまま女の足枷を取り外し始めた。
「何をしているんですか!」
「見ての通り、足枷を外しているのだが?」
「枷を外すということがどういうことか分かっているのですか!」
「分かっているつもりだが?」
 足枷を外す手つきは止まらない。
「魔術封じの枷を解かれたら直ぐに、私はこの国を呪うでしょう。男も女も親も子も老人も若人も区別することなく等しく死神の腕に抱かれるようにと呪うでしょう。陛下は、私のためにこの国最後の国王となることが出来ますか? 臣下も民も友人も妻子も全てを見捨てて、国を滅ぼされるのを目の当たりにしておきながらそれでも私の傍に居ることが出来ますか? もしかしたら私が国ではなく陛下自身を殺すかもしれないのに、呪いを紡ぎだすこの唇に口付けることを最期まで望み続けることが出来ますか?」
 女が話している間に足枷はとうに解かれ、国王は手枷を外す作業に取り掛かっていた。
 もう少しで手枷が外れるという時に、女は泣きそうに顔を歪めながら最後の問いかけをした。
「――陛下は、私の気持ちは永遠に貴方に向かないと知っていながら、私の友人達を殺せと命じたその口で、私に愛を囁くのですか?」
 国王は無言で女の枷を外し、悲しそうに微笑んだ。それは、国王が女に見せた、最初で最後の微笑みだった。
 国は、滅びた。

10/03/31 推敲
10/03/07 執筆

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