昔々あるところに、一匹の猫がいました。
その猫は、とてもとても美しい毛並みを持っていました。毛並みの色は、闇を溶かし込んだかのような黒色です。
しかし猫は、人々から忌み嫌われていました。なぜならその当時、黒猫は魔女や悪魔の手先だと言われていたからです。
猫はいつも独りでした。
猫が歩いていると、あちこちからいつも石が猫に投げつけられていました。さらには罵声を浴びせられることもありました。
いくら猫が鳴いても、いくら猫が傷ついても、守ってくれる人は誰一人としていませんでした。
もともと美しかったはずの毛並みは、血と泥に汚れていきました。
猫はいつも独りでした。
毛並みが黒いのは猫のせいでもなんでもないというのに、猫はいつも虐げられていました。
猫は思いました。
こんなに寂しいくて辛いなら、いっそ死んだほうがいい、と。
けれども、猫は死ぬにはあまりにも臆病でした。そのため猫には、苦しくても生き続ける道しかありませんでした。
猫は考えました。
どうすれば少しでも気持ちが楽になるだろう、と。
猫は、考えた末に魔女を憎むことにしました。人間たちが猫に憎しみをぶつけてくる様に、猫も、自分が恨まれる原因である魔女を恨むことにしました。
魔女が実際にいるかどうか猫は知りません。魔女がいないかもしれないと言う可能性があることが、猫にとっての救いでした。
猫は本当は、誰かを憎むということをしたくなかったのです。
あるとき猫は、いつものように街道を歩いていました。いつものように独りきりで、いつものように石を投げつけられていました。
ただ一ついつもと違うのは、猫に近づく人間がいるということでした。
その女は黒猫のように真っ黒な服装をしていました。
「私と一緒に来ないか?」
その女は、猫に向かって言いました。
その女があまりにも自然に声を掛けたため、猫は女が自分に言っているということに気付きませんでした。
「猫、私は君に言ってるんだけど」
そう言われて初めて、猫は女のほうを向きました。
「私と一緒に来ないか?」
女はもう一度、先ほどと同じ言葉を繰り返しました。
猫は悩みました。
悩んで悩んで、猫はその場から逃げました。
猫はあまりにも臆病だったのです。独りきりでいることは、もちろん猫に恐怖を与えます。それでも、それよりも恐ろしいことが猫にあったのです。
曲がりくねった路地裏を猫は走りました。
走って走って、女を振り切ったと思った猫は、ようやく歩きました。
逃げてしまったことを今更ながらに後悔しながら、猫はとぼとぼ歩いていきます。ふいに、その背中に声がかかりました。
「もう逃げないのか?」
猫が振り向くと、そこには先ほどの黒服の女が立っていました。長い距離を走ったにもかかわらず、女の息は乱れていませんでした。
女は右手で、頬に張り付いていた黒髪を耳に掛けると言いました。
「まったく、私がわざわざついてきてもいい、って言っているのに、逃げるなんてね。私の誘いを断るとは良い度胸だ」
猫は、いつの間にか女に体をつかまれ、持ち上げられていました。けれども猫は抵抗しませんでした。
「無理にでも、あんたにはついてきてもらうよ」
猫が頷くと、その意図が分かったのか、女は一気に笑顔になりました。
その笑顔が太陽のようだと、猫は思いました。
その日以来、猫はその女と一緒に過ごすことになりました。
女は、街の外れにひっそりと薬草店を営む魔女でした。魔女が本当にいるとは思ってもみなかった猫は驚きました。
けれども、猫には女を憎もうという気は起こりませんでした。そして猫はそれ以来、魔女という存在を憎むのを止めました。
猫は、魔女から名前を貰いました。
フルム、というその名は、計らずとも太陽と対になる、満月にちなんだ名前です。
フルムは、魔女から知識を貰いました。
魔女は多くの本を持っていました。その中には吸血鬼や狼男についてなど、本当かどうか分からない内容のものもありました。それでもフルムは毎日のように、魔女に本を読んでもらいました。
フルムは、魔女から幸せをもらいました
ある日、魔女の店に街の警備兵がやってきました。
警備兵と言っても、実際には街の男たちで組んだ自警団です。もちろん店に来た男たちの中には、魔女に世話になっていた者もたくさんいます。
それでも、異質な力を持つものを恐れた人間たちはとうとう魔女を排除することに決めたのです。
魔女は抵抗をしませんでした。
魔女は薬草の見分け方は知っていましたが、それ以外の特別な力――たとえは空を飛ぶ――だとかいう力はまったく持っていなかったからです。魔女と呼ばれているその女性は、薬草に詳しいだけのただの女性でした。
そんなことを言っても男たちには通じないことを、彼女もフルムも知っていました。だから、彼女は自分が捕まると知った時も、何一つ抵抗しなかったのです。
フルムは臆病でした。
彼女が男たちに連れて行かれるという時も、フルムは臆病でした。臆病ゆえに――フルムは男たちに飛びかかりました。
臆病なフルムが恐れていたのは、罵られることでも、傷付けられることでもなかったからです。
フルムは精一杯の勇気を振り絞って、男たちに飛びかかり、その内の一人の顔を引っ掻きました。地面でフルムが威嚇を続けていると、彼女が言いました。
「フルム。私のためを思うなら、抵抗するな。聡いお前なら分かってくれるだろう? ……私は大丈夫だから。三日後に広場で会おう」
抵抗を辞めたフルムを見て、彼女は太陽のような笑みを浮かべると、そのまま男たちに連れて行かれました。
フルムが目を覚ますと、太陽は既に頭上高くまで昇っていました。
既に彼女が連れ去られてから数日が立ち、今日は約束の三日目です。
フルムは慌てて店を飛び出すと、街の中央にある広場に向かって走り始めました。街にはなぜか、人っ子一人見当たりません。
石を投げつけられないことを好都合に思いながら、フルムは休むことなく走り続けました。
フルムがやっとのことで広場にたどり着くと、広場の中央には太く長い棒が台の上に立てられていました。そばにはわらの束が高く積み上げられています。
そしてその棒から一定の間隔を空けて、村の人々が周りを取り囲っていました。町に誰も居ない訳です。
フルムが彼女の姿を探していると、いきなり人々の歓声が湧き上がりました。広場の反対側の入り口からその歓声は聞こえてきます。
しかし、人々が多すぎて、フルムには何が起こっているのか見ることが出来ません。
フルムが必死になって人々の足元を縫って歩いている間にも、歓声は広場の中央に向かって広がっていきます。
始めは広場の入り口に向かっていたフルムでしたが、歓声が近づいてくることに気づいてからは、先回りをしようとただ人ごみを抜けることだけを考えることにしました。
歓声が中心部に近づいてきます。
フルムがようやく人ごみを潜り抜けたとき、丁度目の前を通り過ぎた人がいました。
両脇を警護兵に固められ、普段と真逆の白い服着ているその人は――彼(か)の魔女でした。両手は背中でくくられ、足は裸足で傷ついています。黒くつややかだった髪は、所々からまっていました。
広場の中央にたどり着いた彼女は、棒に縛り付けられました。人々の歓声がひときわ大きく上がります。
彼女の元に駆け寄ろうとしたフルムでしたが、突然フルムの元に石が飛んできました。
フルムに気付いた人々が投げてきたのです。
怒号と歓声と石が飛び交う中、フルムが視線を上げると、やつれてしまった彼女と目が合いました。
彼女の足元にはわらの束が積まれ、そばには松明を持った男がいます。これから何が起こるのかを理解したフルムは、鋭く鳴きました。
その声を聞いた彼女は、太陽のような笑顔を浮かべて言いました。
「フルム、お前は生きなさい」
彼女の言葉を聞いたフルムは、一拍だけ、時を忘れたかのように微動だにしませんでした。そして次の瞬間、フルムは何かに弾かれたように広場の出口を目指し始めました。
彼女に言われたとおりに、フルムは逃げました。彼女との過ごした日々を思い出しながら、石を投げつけられながら、ただひたすら生きるためにフルムは逃げました。
逃げて逃げて、いつの間にかフルムは、はるか東の異国にたどり着きました。ここではフルムの黒い毛並みを見て、石を投げつける人間は一人もいません。
フルムが住んでいた国と、信じるものや恐れるものが全く違うからです。
長い間、本当に長い間走り続けていたフルムは、とても疲れていました。空腹を抱き疲れ果てたフルムは、とうとう倒れてしまいました。
ただ、フルムの運が良かったのは、そこに男の子が通りかかったことです。
目が覚めるとフルムは、男の子の部屋にいました。体について固まっているはずの血は、男の子が濡らした布で拭いたのか、きれいさっぱりなくなっていました。
腹が減ったフルムが部屋を見回していると、男の子が部屋に入ってきました。手には温めたミルクを持っています。
男の子はそのミルクをフルムの前に置きました。
「さあ、飲みなよ」
男の子は言いました。けれども、フルムは飲もうとしませんでした。
臆病なフルムは、まだ男の子のことを信用していなかったからです。さらにフルムは、男の子は仲良くなってしまうことが怖かったのです。
いつまでたってもミルクを飲まないフルムを見た男の子は、ミルクをフルムの前に置いたまま部屋を出て行きました。フルムはその隙に体を起こすと、ミルクを飲み始めました。ゆっくりと休んだおかげで、疲労はすっかりとれています。
ミルクを飲んで空腹も収まったフルムは、そのままもう一度眠りました。
次に目を覚ましたときにフルムが見たものは、目の前にある男の子の顔でした。
驚きすぎて身動きも出来ないフルムに、男の子は話しかけました。
「君の名前、僕が付けても良いかな?」
か細いフルムの鳴き声を肯定と取ったのでしょう、男の子は続けました。
「じゃあ……ダーネス。君の名前はダーネスがぴったりだよ!」
男の子はフルムを持ち上げながらうれしそうに言いました。
フルムの暗闇のような毛並みから考えたのでしょう。ダーネスとは、闇を模した名前です。
その日から、フルムはダーネスになりました。
その村に住んで居る男の子の家族は、出稼ぎに行っている父親と、母親。そして数歳年下の妹です。
男の子の暮らしは決して裕福と言えるものではありません。それでも、男の子たちはダーネスを家族の一員にすることに決めました。
主に世話をするのは男の子ですが、いつも男の子のそばには妹が居ました。
男の子たちが一生懸命世話をしてくれているのにも関わらず、ダーネスはなかなか体を動かすことが出来ませんでした。
ダーネスには、それが悲しくて仕方がありませんでした。
始めは男の子たちと馴れ合うつもりの無かったダーネスでしたが、怪我が癒えておらず身動きの取れないダーネスは家を離れることが出来ません。幾日か過ごしているうちにダーネスは、男の子たちと過ごす時間を幸せに感じていました。
ある日の朝。
ダーネスは、目を覚ますと同時に体がとても軽いことに気がつきました。
やっと動けるようになったことが嬉しく、ダーネスは男の子の家を飛び出し外を駆け回りました。体は軽く、どれだけ走っても疲れません。
しばらくしてダーネスが家に帰ると、男の子と妹が大声で泣いていました。男の子の腕には何かが抱かれています。
闇のように黒い毛並みの――
ダーネスは思わず家から飛び出していました。
誰もダーネスが居たことにも、去ったことにも気がつきません。ダーネスは、もう男の子の元には居られないのだという事を悟りました。
ダーネスは、また独りになりました。
以前も独りの時期があったとはいえ、やはり寂しさが襲い掛かります。一度人と居るぬくもりを知ってしまっただけに、再び感じる寂しさは以前と比べ物になりません。
ダーネスはそのことを直感で知っていたために、二度とも人と馴れ合うことを拒もうとしたのです。ダーネスが一番恐れていたのは、大切な人がいつか自分のそばから居なくなるであろうということだったのですから。
ダーネスが、これからどうしようかと悩んでいたとき、目の前を男の子とその妹が通りかかりました。男の子は猫の亡骸を抱いたままです。もちろん二人とも足元のダーネスに気がつきません。
ダーネスは無駄だとは知りながらも、二人の後をついていくことにしました。
二人が向かったのは、初めてダーネスと出会った場所です。男の子は往来の邪魔にならないように、と脇の茂みの中に猫を置きました。
男の子たちの村では、動物の亡骸を地に埋めることはありません。野生の動物が死ぬと誰にも埋めてもらえないように、飼っていた動物であっても最後にはあるべき状態にするべきだ。という考えからです。
男の子と妹が去った後も、ダーネスは地に置かれた自分を眺めていました。死んでからあまり時間が経っていないせいか、まるで眠っているようです。
たっぷり三拍たった後、ダーネスはゆっくりと自分の死体に足を踏み出しました。もしかしたら、もう一度体に戻れるかもしれないと思ったからです。
結果的にダーネスの考えは当たりました。
けれども、再び体を得たダーネスは二度と、お腹が空くことも眠いと感じることもありませんでした。
体を得たダーネスは、それから一度も男の子やその妹と会うことはしませんでした。それがダーネスなりのけじめだったのです。その一方で、村から離れるということもしませんでした。最後まで男の子に感謝の意を伝えることが出来なくて、未練が残っていたのです。
そして男の子と離れて何年もしたころ。
いきなり村でお祭りが始まりました。唐突に始まるお祭りは、誰かが亡くなった合図です。村では、遺族が悲しんでいると死者が不安がって眠れないと信じられているため、誰かが亡くなるとあえて祭りを開くのです。
送霊の舞を踊るのは、既婚者ならば妻、未婚者であるならばその者の姉妹が通例です。
村の中心部にダーネスが着いたときにも、女が踊っていました。
ダーネスはその女の顔を見たことがありました。昔、ダーネスの世話をしてくれた男の子の妹です。
それが分かったとたん、ダーネスは身を翻して墓場へと走りました。今回村で死んだのは青年です。ダーネスと出会った時には子供だった彼も、今では立派な青年になっていることでしょう。彼の妹が踊っていたからと言って、彼が死んだとは限りません。もしかしたら妹の夫が死んだ可能性もあります。それでも、ダーネスの胸騒ぎは収まりません。そして――悪い予感と言うものは当たるものです。
ダーネスは墓場につくと、注意深く地面を見渡し始めました。掘り返したばかりの土は、柔らかいままだからです。月は出ていないのであたりは真っ暗でしたが、猫であるダーネスは夜目が聞きます。
ダーネスが見つけた墓に刻まれていたのは、まさしくあの男の子の名でした。
ダーネスは今までに無いほどうろたえました。うろたえてうろたえて、そうして思い出したのは、昔一緒に過ごした彼女の言葉です。
『黒猫が死体の上を横切るとその死体は吸血鬼になるんだってさ』
そのときのダーネスと彼女は、その記述が嘘か本当か分からないと笑い飛ばしていましたが、今のダーネスにはその記述だけが頼りでした。ダーネスはどうしても、男の子にお礼を言いたかったのです。
ダーネスは未だ柔らかい土を掘り返しながら、必要以上に土の上を歩き回りました。
ひたすら掘って歩いてを繰り返してどれだけ経ったでしょう。突然、土が盛り上がりました。ダーネスが驚きながら見ていると、土の下から現れたのは今では立派な青年となった、あの男の子でした。
男の子――青年は不思議そうに体についた少しの土を払い落とすと、ゆっくりと体をほぐし始めました。
ふと、ダーネスと青年の目が合いました。五拍の沈黙の後、先に口を開いたのは青年でした。
「ダーネス?」
名前を呼ばれるとは思っていなかったダーネスは、びくりと肩が震えました。
「やっぱりダーネスだ」
満面の笑みを浮かべて青年はダーネスを持ち上げました。
その姿がダーネスには、昔自分を拾った彼女と重なって見えました。
「ありがとう、って。ずっと言いたかった」
ダーネスは泣きそうになりながら言いました。――彼女に言ったのか青年に言ったのかは、ダーネスにさえも分かりませんでした。
「うわ、ダーネスが喋った」
生前には出来なかった発音も、発してみると案外簡単に話すことが出来たことに、ダーネスも驚いていました。けれどもその驚きよりも、青年と意思疎通が出来るようになった喜びのほうがダーネスの心を埋め尽くしていました。
「ところで、僕はどうして生きてるんだろうね?」
ダーネスを地面に下ろした青年の素朴な疑問に、ダーネスは罪悪感を覚えました。青年を生き返らせたのはダーネスの都合に過ぎないのですから。
恐る恐るダーネスはそれらのことを説明しました。罵られる覚悟は出来ていました。
それでも、青年はダーネスの前にしゃがむと、優しく言いました。
「僕はダーネスともう一度会うことが出来て、うれしいよ。血を飲みたいって気持ちがあるから、吸血鬼になってしまったのは本当なんだろうけど……それでも、もう一度会えたことが嬉しいんだ」
青年は立ち上がり、伸びをしながら続けて独り言を言いました。
「さて、これからどうしようかなー。妹を襲いたくは無いからここにはいられないし」
「一緒に旅をしようか」
気がつくとダーネスの口から言葉が零れていました。
「名前をあげるよ。昔の名前のままじゃ色々と大変だろうから。――フルムはどうかな? 満月って意味なんだけど」
ダーネスは、自分でも饒舌だとは思いましたが、あえて青年のほうを見ずに続けました。
「闇を意味するダーネスに、満月を意味するフルム。お似合いだと思うんだけど……どうかな」
恐る恐るダーネスが訊くと、青年は笑顔を浮かべながら言いました。
「いいね。フルムか……じゃあ、僕が君を照らし続けてあげるよ。優しい光でね」
空には相変わらず月がありません。
それでもダーネスは、もう新月の夜を闇だとは感じませんでした。