旅の終わりは満月の夜に

 夜。
 空には雲ひとつ無いが、月光は差さない。それでも辺りが闇に沈まないのは、代わりとなるものがあるからだ。
 月の代わりに明かりを漏らしているのは、青年の眼前にある教会。町から少し離れたところに建っているそれには、それほど豪華な装飾は見当たらないが、とりたてて質素というわけでもない。
 窓から漏れるろうそくの光に影を揺らしながら、青年は、足元への闇へと声を掛けた。
「ここに来るのも、久しぶりだね」
「ふむ。五十年は過ぎているのではないか」
 青年の言葉に反応したのは、小さな闇――否、闇と見間違えるような毛並みを持つ黒猫。
「じゃあ、彼ももうおじいさんか……」
 黒猫が言葉を話すことに疑問を持つはずも無く、青年は教会の扉に向かって歩み始めた。
「よぼよぼになってたら嫌だなー」
 苦笑を漏らしながら青年が扉を開ける。
 どこの教会もそうであるように、入ってすぐの部屋が礼拝堂になっており、部屋の奥の壁には十字架が立てられている。複数人が掛けられる椅子は規則的に並べられており、扉から十字架に至るまでの通路を示していた。
 十字架の元で今日最後の祈りを捧げていたのは、青年の老いた旧友ではなく、
「女の子……」
 青年の呟きは、足元の黒猫に向けられたものですらなかった。しかし、娘の耳には届いたらしい。娘は祈りを中止すると、来訪者の姿を確認すべく振り返った。
 年は十六、七といったところだろうか。藍色が基調の修道衣を着た娘は、胸元にロザリオを下げている。
 内心は驚きながらも娘の傍へやってきた青年に、娘は微笑みかけた。
「神のご加護をお求めでしょうか?」
 食料しかり、寝床しかり。何かに困った旅人が教会にやってくるのは良くあることだ。
 しかし、青年の目的は旧友に会うこと。その旧友が日課であるはずの祈りをしていなかったことに青年は困惑しているのだが。
 二十年の間に娘が生まれていてもおかしくない。青年はそう結論付けると、とりあえず、旧友に会うことを優先することにした。
「そうじゃなくて――神父殿はご不在かい?」
「神父様は、半年ほど前に亡くなりました」
 言いにくそうに娘が放った言葉は、青年を驚かすには十分すぎるほどだった。
 数瞬の沈黙の後、先に口を開いたのは娘のほうだった。
「お知り合いの方でしょうか?」
「あ、うん。知り合いって言ったら知り合いだけど……」
 いまだに驚きを隠しきれない青年は、しどろもどろに答えた。
 その様子を見てか否か、黒猫が青年の足元でにゃあと鳴いた。
「とりあえず、もう遅いですしお部屋を用意します。詳しい話は明日にでも」
 青年の動揺を悟った娘は、返答も待たずに十字架の手前にある祭壇に灯された蝋燭の灯を消していく。
 また、黒猫が鳴いた。
 一つだけ明かりを残した蝋燭を、燭台ごと持ち上げ、娘は部屋を案内するために振り向いた。
 しかし、娘が振り向いた先には誰も立っていなかった。
「あら?」
 蝋燭を掲げながら協会の中を探しても、娘の目に青年の姿は映らなかった。



「取り乱してごめん」
 青年は、教会の屋根に座っていた。傍にはもちろん黒猫がいる。
「まだ、死には慣れぬのだな」
「まあ……ね」
 青年は自嘲気味に答えた
 長く生きている分、青年は人の死とよく出会う。それでも、青年が死に慣れることは無い。いままでも、きっとこれからも。
「それよりも、さっきの女の子のことだけど――」
「うむ、常人にはありえぬ聴力を持っておったな」
 誤魔化すように青年が話題を変えると、黒猫は追求することなくその話題に乗った。
「見かけは人間と変わらなかったから……僕と同じかな?」
 青年の疑問に、黒猫は是とも否とも答えない。
「僕が正体を彼女に言ったら、怒る?」
 青年が恐る恐る聞いたが、黒猫は答えず、わざとにゃあと鳴いた。
 空にはやはり、月は無い。

        †

 再び夜。
 空には薄い三日月が浮かんでいる。
 青年はもう一度、協会の扉を押した。
 もちろん、黒猫も一緒だ。
 娘は昨日と同じように、十字架に向けて祈りを捧げている。
「こんばんは」
 青年が、小さな声で挨拶をする。しかし、娘は聞こえていないのか、反応を示さない。
 青年は黒猫と視線を一度交差すると、十字架までの距離を歩いた。
 わざとなのか、癖なのか。青年はほとんど足音を鳴らさずに、娘の背後に立った。
「こんばんは」
 いきなり背後から聞こえた声に、娘は驚いて振り返る。しかし、そこに立っているのが昨日であった旅人だと気づくと、娘は胸をなでおろした。
「こんばんは。いきなり背後に立たれてるので、驚きました」
「ああ、ごめんごめん」
「昨夜はいつの間にか帰られてしまったのですね。もう、いらっしゃらないかと思いました。――なんだか、昨日と違う人みたいですね。」
 小首をかしげて娘は言うと、思い出したように続けた。
「自己紹介がまだでしたよね? 私はルーアと申します」
 月を象徴する護り神ルナに、ちなんだ名前だ。
「あなた様は?」
「僕は――」
 ルーアのごく自然な質問に、青年は一度口を閉じた。目線をそらして数拍考えこむと、再び口を開く。
 黒猫が鳴いた。
「――バンパイアだよ」
 その答えにルーアは軽く目を見開くと、同じように数拍開けてから口を開いた。
「珍しい、お名前ですね」
 まさかの答えに青年は顔を引きつらせた。
 黒猫が思わすくつくつと、のどの奥を引きつらせて笑う。
「この女、あの神父に育てられたとは思えぬほど無知じゃう」
「えっと、吸血鬼、って知らない?」
 青年は眉間を押さえながら質問したが、ルーアはただ目を丸くして呟いた。
「猫が喋った……」
「喋ってはいけぬのか?」
 ルーアは青年が吸血鬼であることよりも、猫が喋ったことに気を取られている。青年は再び軽く、眉間を押さえた。
 青年の思惑では、ルーアは青年が吸血鬼であることに、最大限に驚くはずだった。
「ダーネス。悪いけど少し黙っててくれないか?」
 闇を模した名前を持った黒猫は、青年に言われるとおり口を綴じた。
「吸血鬼、って知らない?」
 青年はもう一度仕切りなおそうとしているようだ。
「血を吸う?」
「そう」
 青年が相づちを打つ。
「物語とかに出てくる?」
「そう」
「満月を見ると――」
「それは狼男」
「で、あなたは」
「吸血鬼」
 数拍固まった後に、ルーアは驚きの声を上げた。
「だって、昨日は人間だったじゃないですか」
「昨日は?」
 ルーアの言葉の違和感に青年が反復すると、ダーネスが音もなく青年の肩に乗り、口を開いた。
「おぬしは、こやつが昨日は人間だったと申すのじゃな?」
「ええ」
「ふむ……」
 ダーネスは考え込むように口を閉ざした。訳の分からない青年は、ただダーネスの艶やかな毛並みを頬で感じるだけだった。
 唐突にダーネスが口を開く。
「ところでおぬし、怖くはないのか? 吸血鬼が目の前にいるのだぞ」
「えっと、そうですね……」
 今更気付いた様に、ルーアは少し思案した後に続けた。
「私を食べるのはいいんですけど、村の人たちには手を出さないでいただけますか?」
 ルーアの答えは、まるっきりダーネスの問いへの答えにはなっていなかった。それでも青年は目を見開き、息を呑む。
 ルーアが言った言葉が、青年の旧友が言った言葉とそっくりだったからだ。
 俺を食べるのはかまわないが、村のみんなに手を出すのは止めてくれよ。
 そう言って笑った男の顔を、脳裏に浮かべながら青年は言った。
「心配しなくても、君にも村の人にも手を出さないよ」



 前日と同じように、青年とダーネスは教会の屋根に上っていた。
 夜も遅いので、ルーアは朝のお祈りのためにも早く寝なければならない。そのため、自然とお開きとなったのだ。
 もちろんルーアは部屋を貸すと言ったが、むしろ夜が本分の青年とダーネスは、その提案を辞退した。
「まさか、あいつと同じことを言うとは思わなかったよ」
 青年が喜びを滲ませて言う。
 旧友の後継であるルーアが、しっかりと旧友の心を受け継いでいるのが嬉しいのだろう。
「明日の夜も、少しなら話せるって言ってたし、しばらくはここに留まろうかな。――ダーネスはどう思う?」
 青年の質問を無視して、ダーネスは口を開いた。
「あの女、昨日は貴様が人間であったことを直感的に分かっておったみたいだな」
「そう言えばダーネス、考え込んでたよね。何だったの?」
 いつもそうなのだろう。質問を無視されたことに青年は、気を悪くせずに言った。
「貴様にわざわざ言うほどでもない。どうしても気になると言うのであれば、あの女に、どうして分かったのか聞いてみることじゃな」
 月は雲に隠れて見えない。

        †

 三度(みたび)夜。
 空には三日月が浮かんでいる。
 教会には、昨日と同じように青年とダーネスとルーアの陰がある。
「どうしてこの前、僕を人間だと思ったの?」
 青年が聞くと、ルーアは答えにくそうに言葉を選びながら言った。
「気配が、違う気がしたんです」
「気配?」
「初めいらっしゃったときは、何も気付きませんでした。ただ、昨日いらっしゃったときは、他の人とは違う気配を感じたんです。どんな、と言われたら言いにくいんですけど」
 ふーん。と青年が理解したのかしていないのかよく分からない相づちを打つと、今度はルーアが青年に質問した。
「どうして一昨日は人間だったんですか? 今日も吸血鬼さんですよね」
「それは」
「新月の夜にだけ、こやつは人間に戻るのじゃよ」
 それまで静かに聴いているだけだったダーネスが、青年の言葉を遮って答えた。
「吸血鬼と言うのは総じて、満月のときに一番力が強いものじゃ。そして、月が欠けていくに従い力が衰え、新月には人間になる。――満月の夜には扉を開けるなと、聞いたことが無いかの?」
「それなら、旅人さんの話で聞いたことがあります」
 頷きながらルーアが答える。
「てっきり狼男のことだけだと思ってました」
 月は神秘的だと古来から言われているように、月と言うものには何かしらの力が宿っているものらしい。狼男が狼になるのも、吸血鬼の力が最大になるのも、その力のせいだと言われている。
 満月の夜に扉を開けないのは、そういった事情からだ。特に、吸血鬼は家人の許可が無いとその家には入れない。そのため、満月の夜に扉を開けることは昔から忌避されているのだ。青年が教会に入ることができたのは、昔旧友が青年に許可を出していたからだ。
「逆に新月になると特に力が強くなるのが、ダンピールじゃ」
「「ダンピール?」」
 これは青年も知らなかったようで、ルーアと二人してダーネスの言葉を反復した。
「吸血鬼と対になると言われている者じゃな。吸血鬼と人間との間に生まれた者のことで、唯一吸血鬼を殺す力を持っておる」
 何故か今晩のダーネスは饒舌だ。
「へえ、知らなかったなあ……新月になると逆に力が強くなる、か。じゃあ、満月になると僕と逆で力がなくなるのかな」
「自分の弱点について、知らないって言うのもどうかと思うんですが」
 感心する青年に、ルーアがもっともなことを言う。
「そう言えば」
 思い出したかのようにルーアが続けて言う。
「弱点って言ったら、ここ教会ですよね」
「うん」
 青年が当たり前という風に相づちを打つと、ルーアは小首をかしげて質問した。
「今更なんですけど、どうして十字架が大丈夫なんですか? 初日は人間だったのですから特に不思議は無いのですけれど」
「ああ、それは確かに疑問だろうね。――僕の死んだ地域には十字架なんて風習、無かったんだ」
 吸血鬼に十字架が効くのは、それがその吸血鬼にとって聖なる証だからだ。邪悪な存在である吸血鬼に聖なる証は効果があるが、十字架をシンボルとする宗教を信仰していなければ、十字架はただの交わった棒に過ぎない。
「吸血鬼になるには、一度死ぬんですか?」
 ルーアは、吸血鬼について噂でしか知らなかったのだろう。想像と違う吸血鬼の性質に、目を輝かせて青年に質問を続ける。
「僕は一度死んだけど……それも人によるのかな? ダーネス、どうなの」
 青年が話を振ったことで必然的に説明役になってしまったダーネスは、わざとらしくため息をついた。それでも、拒否する気は無いらしい。ダーネスは青年とルーアの間に腰を下ろした。
「吸血鬼は、死人が蘇ることでしか生まれぬ。女の吸血鬼に生殖機能が備わっていないためじゃ。吸血鬼になるための方法はいくつがあるが、黒猫が墓を飛び越えるというのもひとつじゃ」
「僕はそれだよね。ダーネスが飛び越えたんだろ?」
「そうじゃ。おぬしはどう思っているのか知らぬが、我が勝手に選んで勝手に吸血鬼にさせてもらった」
「それって、ものすごく自分勝手ですよね」
 ルーアが唐突に言う。うつむいたその横顔は青年からは見えない。が、見上げているダーネスからはもちろん丸見えだ。
「人が安らかに眠っているところを叩き起こすなんて」
 ルーアの声が震えているのに気付いた青年は、慌ててその場を取り繕った。
「いいこともあるんだよ。一定期間がたったら人間に戻れるんだって」
「そうなんですか?」
 ルーアが驚いて顔を上げる。今までで一番意外な話だったらしい。
「まあでも、僕はその期間を知らないからダーネスに頼るしかないんだけど」
 青年の視線を受けて、ダーネスが口を開いた。
「安心しろ。その時は我が責任を取って――」
 ダーネスが、にやりと笑みを浮かべる。
「――殺してやろう」
 その言葉で、ルーアからのダーネスの評価は最悪になったようだった。



「どうしてルーアにあそこまでの嫌がらせをするかなあ」
 もはや定位置となった教会の屋根で、青年がダーネスを軽い口調で非難する。
 青年が知る限り、今までの旅の中でダーネスが人に意地悪をするということは無かった。嫌いな者や興味の無い者に対しては、徹底無視だったからだ。そのため、青年には今回のダーネスの行動が不可解だった。
 だからこそ、青年は聞いた。
 ダーネスが答える。
「貴様とあの女が決して相成れぬからじゃよ。結ばれぬ恋ほど見ていていらいらするものは無い。――あれほどほのめかせておれば、おぬしでも気付いたじゃろうが……あの女はダンピールじゃ」
 ルーアの異常なほどの聴力が、次の日には無くなっていた。そのことが分かった時から、ダーネスはルーアがダンピールではないかと疑っていた。新月になると五感が急に鋭くなるのも、バンパイアと人の気配を感じ分けることも、ダンピールの典型的な特徴だ。
「別れは必ず訪れる。血を飲みほして傀儡(かいらい)にするわけにもいかぬしな」
 バンパイアが同族の血を吸わないのは、その血がお互いにとって毒だからだ。バンパイアの血を引いているダンピールも例外ではない。
「直ぐにとは言わぬが、きちんと別れ時を悟ることじゃ」
 何も言わない青年を残し、ダーネスは屋根から去った。
 雲ひとつ無い空には、三日月が浮かんでいる。


     †


 決して相成れることは無い。とダーネスに言われながらも、青年は黒猫を伴って毎晩ルーアの元を訪ねていた。
「こんばんは」
「あ、こんばんは――ダーネスさんも」
 青年が挨拶をすれば、ルーアがお祈りをやめて答える。それはこの幾日かで習慣となっている行動だ。
 いつものように二人と一匹は、取り留めの無い話を始める。
 しかし、普段どおりならば何事も無く終わるばす会話は、唐突に中断された。
 いきなり倒れた青年に、ルーアが驚いて駆け寄る。
「どうされたんですか!」
 ルーアが軽くゆすっても、青年は力無く横たわるだけだ。
「血を飲まぬから」
 呟くように言ったダーネスに、ルーアの視線が向く。
「こやつ、ここしばらくずっと血を飲んでおらぬのじゃ。おぬしとの約束を守ってな」
 私を食べるのはいいんですけど、村の人たちには手を出さないでいただけますか?
 何気なく言ったはずの言葉が、ルーアの脳裏に思い出される。
「どうすれば」
 すがるようにルーアがダーネスを見つめると、ダーネスはごく当然といった口調で告げる。
「血を飲んでいないのじゃから、飲ませればよかろう」
 確かにその通りである。
 ルーアが自分の血を飲ませるために刃物を探す。しかし、聖域である礼拝堂に刃物は置いていない。教会の離れにあるルーアの部屋にならばもちろんあるだろうが、今は時間が惜しい。
 ルーアは意を決すと、ダーネスに手の平を差し出していった。
「血管を、食い破ってください」
 ダーネスがルーアの顔を見返す。ルーアの瞳から半端ではない覚悟を読み取ったダーネスは、良かろう。と一言呟いた。
 ダーネスが牙をむき出したその時。
「駄目だ……」
 うわごとのように、青年の口から言葉が零れた。
「ダンピールである君の血は、僕にとって、毒だから」
 苦しそうに――精神的にも苦しそうに、青年は言った。
「じゃが」
 ダーネスが、高い位置にある教会の窓から外を覗いて言う。
「今日の月は真ん丸じゃのう」
「満月なら、大丈夫ですよね!」
 ダーネスの言葉が意図するものに気付いたルーアが、腕を突き出す。ダーネスはあえて、爪でルーアの手首を裂いた。
 心臓と呼応してどくどくと流れる血を、ルーアが青年に飲ませる。
 しっかりと青年の喉が動いたことを確認して、ルーアは息を抜いた。
 次の瞬間。
 青年が急に体を起こして咳き込み始めた。青年の口に残っていた血が床に飛び散る。息を吸う暇も無く咳き込み続けるため、青年の目には涙が浮かんでいた。
 ルーアが驚愕の表情を浮かべながら、青年を介抱する。
「――我がいつ」
 目の前の状況を気にも掛けず、ダーネスが口を開いた。
「我がいつ、満月の夜はダンピールに力が無い、と言った?」
 ルーアの目が見開かれる。
「力が消えるのは吸血鬼だけじゃ。ダンピールの力が消えることなどありはしないわ」
 ダーネスが青年を一瞥する。
「吸血鬼の力が一番強ければあるいは――と思ったのじゃが、どうやら間に合わなかったみたいじゃな」
 青年の咳はいつの間にか止まり、再び、力無くルーアにもたれている。
「そんな……」
 急激にこみ上げた涙を拭いもせずに、ルーアは青年を揺さぶる。しかし、反応は無い。
「嘘ですよね。私、あなたの名前もまだ知らないのに……」
 それでも反応が無いことで、ルーアの心の糸がぷつりと切れた。教会にルーアの泣き声が響く。
 大声で泣き出すルーアに嫌気が差したのか、ダーネスが一喝した。
「こやつはまだ死んでおらぬわ!」
 その言葉を聴いて呆然としているルーアを尻目に、ダーネスは、やかましい女じゃ。などとひとりごちている。
「生きてる?」
 ルーアの声に反応したのか、青年が軽く笑った。気分は悪そうだが、顔色は元に戻っている。
「心配掛けてごめんね。ダーネスも、ごめん」
「ふん、死に損無いめ」
「……どういうこと?」
「僕にもよく分からない」
 ルーアと青年の視線を受けて、ダーネスは口を開く。
「とりあえず、女の出血を止めるのが先だと思うがの」



「で、結局どうして僕は生きてるの?」
「おぬしはこやつに何か違和感を感じぬか?」
 青年の質問を無視して、ダーネスはルーアに質問した。ルーアの腕には急ごしらえの包帯が巻いてある。
 いきなり質問されたルーアは、戸惑いながらも青年の全体を眺めた。
 少しの間考え込むように青年を凝視していたルーアだったが、とうとう違和感に気付いたようで、あ。と声を漏らした。
「……人間になってる」
 ルーアの言葉に、青年が驚きの声を上げた。
 ダーネスが説明するために口を開く。
「今宵でこやつが人間になるための期を満たしたのじゃ。そのためにダンピールであるおぬしの血を使って殺そうと思っておったのに、まさか人間になるほうが早いとはな」
「じゃあ、吸血鬼の力が強ければ――っていうのは」
「力があれば死ぬじゃろう?」
「どうしてそんなに殺したがるんですか。お友達でしょう?」
「お友達、か」
 ルーアの言葉を鼻で笑ってダーネスは、音も無く青年の肩に乗った。そして、耳にささやく。
「おぬしが人間に戻ったりしたら、我は闇の世界でまた一人になるであろうが」
「だったら、一緒に住めばいいのに」
 ダーネスは青年の肩から飛び降りると、着地地点で振り返って言った。
「だれが家畜のようになどなるか」
「そういえば」
 ルーアが手を打ち合わせて青年に言う。
「私、あなたのお名前を聞いてないんですよね」
「あー、確かにそうだったね」
 今更言うのも気恥ずかしいのか、青年は一度軽く咳き込んで口を開いた。
「僕の名前は――」
 空には、満月が浮かんでいる。

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